第273話 花の季節 |
投稿:院長 |
桜が散っても、この時期は種々の花が開花し、その色彩を楽しむことができ、私にとって大好きな季節になっています。 患者さんの家では、園芸をしている方が多く、庭にはパンジー、ビオラ、チューリップ、スイセン、ハナミズキ、シバザクラ、ネモフィラ、シャクナゲなど、色とりどりの花が咲き誇り、訪問のたびに楽しませてもらっています。 そして、庭だけでなく玄関には生花が、仏壇には切花が飾ってあり、花を見かけない家はないと言ってよいほど、花はなくてはならないものになっています。 また、ある患者さんの部屋には、お孫さん一同から誕生日のお祝いに贈られてきたという見事な胡蝶蘭が飾られており、患者さんに対する感謝や想いをそこに見ることができました。 庶民が日常生活の中で花を取り入れたり楽しむという文化は、江戸時代に始まったようで(当の江戸は人口が密集し、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように火事や派手な争い事が絶えなかったようですが)、今や桜や菊の花は日本の国花に指定され、各都道府県には、その地域を代表する花がシンボルとして指定され、宮城県はミヤギノハギ、私の出身である新潟県はチューリップが県花となっています。 さらに、冠婚葬祭でも花は欠かすことはできず、お祝いにプレゼントとして花を贈り、亡くなった方をたくさんの花と共に見送ることが一般的になっています。 言葉の世界でも、新郎を「花婿」、新婦を「花嫁」と呼んだり(後になって「鬼嫁」と呼ばれるようになる人もいるようですが・・・)、立派な功績を残して引退することを「花道を飾る」、話が盛り上がることを「話に花が咲く」、他人に功績を譲ることを「花を持たせる」、素晴らしいものを2つ同時に手に入れることを「両手に花」などと、花を使ったことわざが多数あります。 話が変わりますが、4月下旬に、当クリニックと連携する複数の事業所から花のギフトが届きました。 振り返ってみると、クリニックが保険医療機関として正式に開業したのが昨年5月1日なので、早いもので本日で開業1周年ということになりました。 その節目の日をきちんと覚えていてくださっていたことに感謝の言葉もありません。 このフラワーギフトをみて、この地域に在宅医療の花を咲かせ続けたいと強く感じているところです。 |
2022年5月1日(日) |
第272話 もう一人の主役 |
投稿:院長 |
当院では、癌などの終末期の患者さんが人生の最期の時を自宅で過ごせるよう支援していますが、もともと通院していた病院に再入院し、最期の時間を病院で過ごすことがしばしば生じてきます。 実は、終末期の患者さんが、自宅での生活が困難になってしまう理由として、患者さんの病状が悪化して十分に苦痛を緩和できなかったということ以上に、同居している家族の介護負担が大きな要因になっています。 介護は複数で交代しながら行うことが理想ですが、介護者が一人だけということも多く、また、近年は病院で亡くなる人が増え、自宅で家族の看取りを経験している人が減少し、介護の経験が不足しているのです。 例えば、普段から身の回りのことをすべて自分で行い、家族には一切手出しをさせないような自立心の強い患者さんの場合、病状が悪化して自立した生活が困難になってくると、今までほとんど介護に関わっていなかった家族が、本人にどのように接したら良いのか戸惑うことになります。またその一方で、普段から家族への依存心が強い患者さんの場合、家族に対して昼夜を問わない様々な要望が出されて家族が疲弊してしまうケースもあります。 さらに、家族の責任感や不安感が強く、患者さんを一人にしておけないと考えている場合も、介護の負担が次第に大きくなり疲労が蓄積してしまいがちです。 いくら親しい間柄であっても、適切な距離感を保って介護することが大切で、患者さんが自分でできることはそれを促し、本当に困った時に手助けするくらいのほうが丁度良いのです。 孤独で出口が見えない介護、いくら頑張っても誰からも称賛されない介護ほど辛いものはありません。 介護者を孤独にさせないよう、患者さんに関わる医師、看護師、ケアマネージャー、介護士が、家族を時には励まし、時には一緒に悩みながら、けして完璧な介護を目指す必要はないと伝え、サポートすることが大切です。 在宅医療は、それぞれの人生が交錯するドラマ。 そのドラマでは、患者さんだけでなく介護者も大切な主役で、けして「劇団ひとり」にしてはいけません。 もう一人の主役が自分のペースでいきいきと過ごせるよう、一生懸命に脇役の役目を果たしていきたいと考えています。 |
2022年4月25日(月) |
第271話 サクラサク |
投稿:院長 |
待ち望んだ桜の季節がやってきました。 仙台でも数日前から桜が満開となり、西公園ではライトアップされた桜を見学に来る人で賑わっていると報道されていました。 普段の診療でも、往診車の車窓から見事に咲き誇った桜の景色を見て楽しんでいます。 しかし、患者さんの中には、外出が困難で桜を見ることができない人が少なくありません。 そこで、そんな患者さんのために、外出中にスマートフォンで写真撮影をした桜を、診察中に患者さんに見てもらうことにしています。 世界的に見ても、ひと種類の花が咲くのを国中で待ち焦がれて話題にすることは珍しいことのようで、桜の花は古くから様々な歌に詠まれて日本人に愛されてきました。 例えば平安時代の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)は「世中(よのなか)にたえて桜のなかりせば、春のこころはのどからまし」(世の中に桜の花などなければ、春は心をのどかにして過ごせるだろうに)と詠み、桜のことで落ち着かない気持ちを表現しています。 そんな私も、桜に季節になると、「せっかく満開になったのに風や雨で散ってしまうのはもったいないな〜」とか、「有名な桜の名所で花見ができるなんてうらやましいな〜」とか、「もっと良い写真撮影スポットはないかな〜」などと、在原業平のように落ち着かない日々を過ごすことになってしまいます。 今年はどうかというと、長男が高校受験の年になり、3月の合格発表まで例年よりもひと足早く落ち着かない日々を過ごしていましたが、第一志望の高校が「サクラサク」という喜ばしい結果となり、昨日からの風雨で満開の桜の花が散りかけても、例年よりも落ち着いた気持ちで過ごすことができています。 |
2022年4月15日(金) |
第270話 潜在能力 |
投稿:院長 |
当院が担当している患者さんで、腸に問題があり、長い間、満足な食事ができず、点滴による栄養補給を受けていた方がいるのですが、ある総合病院に入院し手術を受けた結果、待望の食事ができるようになり、ついに点滴から開放され、皆で喜びを分かち合いました。 この患者さんにとって、手術は一定の危険性を伴うものですが、再び大好きな食事が出来るようになるという利益を優先させたことが良い結果につながったのです。患者さんの希望や生活の質を尊重し、手術をするという決断をしたドクターに敬意を払いたいと思います。 特定の医療を受けるかどうかは、利益と危険性のバランスの上に成り立っており、治療を受けることで得られる利益がその危険性を上回ると判断されれば、治療に踏み切ることになりますが、その一方で危険性が利益を上回ると判断されれば、治療を差し控えることになります。 在宅医療の対象となる患者さんは、人生の最終段階にある方が多く、できるだけ危険を避けて平穏に生活をすることが優先されることが多いのですが、その例外として、自分の生きがいになっているものを得るためにあえて危険を冒すという判断をすることがあります。 その数少ない例外として、「口から大好きなものを食べる」ということなのです。 例えば、病院で検査を受けた結果、嚥下機能が低下し満足な食事摂取が困難と判断された患者さんが、自宅では誤嚥性肺炎の危険を冒しても食べることを優先した結果、再び食事ができるようになった方が少なくありません。そこには、患者さんの希望だけでなく、大好きな食事を味わってほしいという家族の願いがその原動力になっています。 その一方で、ある患者さんは、食べることが生きがいで、再び食べられるような処置を希望していたのですが、ある病院で診察を受けた結果、断層写真の結果を根拠に消化管が機能していないと判断され、残念ながら処置を受けることができませんでした。 近年、病院での画像検査が発達し、正確な診断ができるようになったのですが、その一方で、特に整形外科領域では、画像検査の結果と症状の程度に全く関連性が見られないという研究結果も少なくありません。 例えば、画像検査の結果がほぼ同じであっても、ひどい症状に悩まされている方もいれば、全く症状がない人もいるのです。 画像検査は、必ずしもその患者さんの潜在能力や症状をすべて反映しているわけではありません。 在宅医療では、使用できる医療機器に限りがあるのですが、だからこそ、検査に頼らない判断を求められることが少なくありません。 私自身、患者さんの表情や仕草から、「この患者さんは、まだできるのではないか、まだやれるのではないか」という感覚を大切にしていきたいと思っています。 医療者が五感をフル稼働させて、患者さんの潜在能力を見出し、その潜在能力を引き出して喜びを分かち合うことが在宅医療の醍醐味の一つではないかと考えています。 |
2022年4月9日(土) |
第269話 新しい看取りの形 |
投稿:院長 |
以前、老人施設の多くの入所者は、治療が必要になったら病院に入院し、病院で最期まで過ごすことが当たり前でした。 私が病院勤務をしていた頃、老人施設から入院になった患者さんで、治療で症状は改善したものの、「体力が低下し、歩行が困難になったり、食事が満足に食べられなくなった」という理由で、その施設への再入所を断られてしまい、受け入れ先に困るようなことがたびたびありました。 しかし最近、終末期の患者さんも積極的に受け入れ、看護師が交代で24時間常駐し、「終の棲家」として最期までそこで生活できるホスピスのような役割を果たす老人施設が増えてきました。 当クリニックでも、終末期の患者さんで、介護の負担などで自宅で生活することが難しくなった方が、このような施設に転居となり、私が主治医としてそのまま関わり、看取りをさせていただく機会が増えています。 このような施設の特徴として、それぞれの患者さんに個室が用意され自分の空間として利用できること、感染対策を行いながらご家族のとの面会が許可されていること、調剤薬局と連携し麻薬を始めとした緩和治療薬を積極的に利用できること、お酒などの嗜好品がある場合でも節度の範囲内で持ち込みが許可され、自分のペースで生活できること、などです。 「本当は自宅で最期まで過ごさせてあげたいけれど、介護の負担があってそれが難しい。でも、これ以上病院には入院させたくない」というご家族にとっても安心して患者さんを任せられる場所になっています。 ところで、このような施設に関わるようになって驚くことは、建物がとても立派で清潔感に溢れていること(あゆみホームクリニックの設備投資とは比べものにならないくらい遥かに多くの資金が必要だったでしょう)、どの医療機関でも慢性的に人材が不足し、リクルートに苦労している質の良い看護師が数多く集まっていることです。また、それは当クリニックと連携している訪問看護ステーションにも言えることです。 看護師さんは、良心的で患者さんに対して献身的な方がほとんどですが、なかには、看護師本来の役割よりも自己が優先するあまり協調性を持って仕事をすることが難しい方がいるのも事実で(どの職種にも言えることですが・・・)、一人でもそのような方がいると、現場が混乱し組織としての機能が十分に発揮されません。 訪問診療では、「白衣の天使」と呼ぶにふさわしい看護師さん(訪問診療では白衣を着て働く看護師さんに出会うことは非常に少ないのですが)と出会い、同じ目標に向かって働くことができることが、至福の喜びとなっています。 |
2022年3月31日(木) |
第268話 再会 |
投稿:院長 |
先日、ある患者さんを初めて診察したときのことです。 自宅を訪れてみると、玄関には見覚えのある阪神タイガースのユニフォームが飾られていました。 実は、数年前に私が訪問診療していたある男性患者Hさん(今はお亡くなりになっています)が阪神タイガースの熱烈なファンで、奥さんが今回の患者さんだったのです。 Hさんは進行性の難病を抱えながらも、診察ではいつも礼儀正しく接してくださり、その傍らにはいつも奥さんの姿があり、Hさんにとってそばにいるだけで安心できる存在でした。 室内の雰囲気は当時のままで、Hさんを診察したソファーや病状説明したテーブルがとても懐かしく感じられました。 ベッドの患者さんにお会いすると、当時の穏やかな表情そのままです。ご家族が献身的に介護されている姿も変わっていません。 「ご主人を診察していた医者です。またよろしくお願いします」「こちらこそよろしくお願いします」と和やかな雰囲気で挨拶を交わすことができました。 訪問診療では、出会いと別れの繰り返しです。 患者さんとお別れをするたびに「自分の診療は、患者さんやご家族にきちんと受け入れられたのだろうか?」といつも自問していますが、担当医として2回目の指名をいただくことは、大変光栄なことだとあらためて感じています。 話が変わりますが、あるテレビ番組でインタビューを受けた看護師が、「自分が患者だったら自分の勤めている病院で絶対に治療を受けたくない!」と告白していました(笑)。 医者は、 「職員が患者だったら、自分の診療を進んで受けてくれるだろうか?」「自分の家族が患者だったら、自分の診療を進んで受けてくれるだろうか?」「自分が患者だったら、自分の診療は信頼できるものだろうか?」 という視点が常に必要だと思っています。 そして、「自分が歳を取って身体が不自由になった時、こんな雰囲気で暮らしてみたい」と思えるような患者さんやご家族との出会いに感謝しています。 まずは、阪神タイガースが、天国のHさんに熱烈に応援してもらえるような活躍を期待しています! |
2022年3月23日(水) |
第267話 母の存在 |
投稿:院長 |
在宅医療を通して、母の存在の大きさをあらためて感じています。 ある患者さんは、二人の子供たちの運動会を見るために、治療を受けていた病院を退院し、在宅医療を選びました。 生きることに前向きで、常に明るさを失いませんでした。 退院を心待ちにしていた子供たちは、運動会では、精一杯走って踊って母に成長した姿を見せることができました。そして、家族とたくさんの思い出を作りました。 そして、今まで愛情で優しく包み込んでくれた母に対して、精一杯の恩返しをしました。 ある患者さんは、病気が進んでも、人としての優しさ、落ち着き、尊厳をけして失いませんでした。 お嫁さんに対しても、まるで自分の娘に接するように人として優しく接してくれました。 病気が進んで、安静にしている時間が長くなっても、そこにいてくれるだけで安心できる存在でした。 そんな母に対して、息子さんご夫婦は、今までしてきてくれたことに対して感謝を込めて精一杯の介護をしました。 どんな事があっても、常に自分の味方になり、寄り添い、嬉しいときには一緒に喜び、つらいときは一緒に悲しみ、たっぷりの愛情で包み込んでくれる世界でたった一人だけの母。 人は生まれる前に、母の子宮に包まれ、守られ、育まれてこの世に生を受けます。 在宅医療を通して家族の姿をみていると、胎児の頃から脈々と刻まれてきた母の愛情の深さを感じることができます。父(男)としてちょっと嫉妬を感じなくはないのですが、父とは違った母の愛情です。 在宅医療では、そんな母に対して、不器用でも、皆さんがたくさんの恩返しをする手助けをしていきたいと感じています。 |
2022年3月15日(火) |
第266話 大義名分 |
投稿:院長 |
ロシアのウクライナ侵攻に心を痛めています。 今回、ロシアのプーチン大統領が掲げたウクライナ侵攻の大義名分は「ウクライナに迫害・虐殺されているロシア系住民を開放する」というものでした。 過去を振り返ってみます。 太平洋戦争での日本の大義名分は「欧米に植民地化されたアジアの国々を開放し、日本が中心となって新しい経済圏、つまり大東亜共栄圏を打ち立てる」というものでした。 日清戦争、日露戦争と戦勝国となり、中国戦線で領土を拡大する軍部の暴走を政治の力で抑えることができず、メディアの力を利用して国民が熱狂する中、無謀な戦争に突き進んでいきました。 ナチスドイツが台頭し、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した時のヒトラーが掲げた大義名分は「強いドイツ民族の復活させる」というものでした。 第一次世界大戦でドイツは敗戦国となり、多くの領土を失い、多額の賠償金や世界恐慌で国内経済が破綻する中、ドイツ国民の優秀さを説き、巧みな演説と失っていた自信と誇りを取り戻すヒトラーの政策に国民が熱狂する中、ユダヤ人の迫害や戦争に突入していきました。 湾岸戦争が始まった時の米国の大義名分は「テロ支援国家であるイラクの大量破壊兵器を無効にして武装解除する」というものでした。同時多発テロを受けた多くの米国国民の支持を受けて開始された戦争でしたが、結局、両国民に多くの犠牲者を出したにもかかわらず大量破壊兵器は発見されませんでした。 国のリーダーは、戦争する時に必ず大義名分を掲げますが、戦争は他国民だけではなく自国民の犠牲者も避けることができません。国民に求められることは国に統制されてしまったメディアの情報を鵜呑みにすることではなく、リーダーが適切な政治決断をしているのか熱狂ではなく冷静に見守り、声を上げることです。熱狂は時に冷静な判断を犠牲にしてしまいます。 そして、リーダーに求められることは、自国民の利益を守ることはもちろん、国際秩序を守り、あらゆる外交努力を行い、多くの尊い命を犠牲にする戦争を回避する強い姿勢です。 今回のウクライナ侵攻では、必ずしもロシア国民の多くの支持を受けているようには思えません。また、ウクライナに派遣されているロシア兵の戦意の低さも指摘されています。 過酷な環境の中で生活し、国のために勇敢に戦うウクライナの人々に思いを寄せるとともに、国のリーダーが掲げた理不尽な大義名分のために命をかけて戦線に送り出されているロシア兵がどんな心理状態で戦っているのか考えると、とても心が痛みます。 早い戦争の終結を願ってやみません。 |
2022年3月8日(火) |
第265話 金子みすゞを読む |
投稿:院長 |
大正から昭和のはじめに500編以上の童謡詩を残した金子みすゞの詩に触れる機会がありました。 当時としては珍しく、女性でありながら、自分が感じたことを独特の感性で柔らかな口語体で表現し、当時の文芸誌に掲載されました。 彼女自身は、いつかは自分の詩集を出したいと願っていたようですが、その願いが叶うことなく、昭和5年、26歳で自ら命を断つことになります。 彼女が亡くなった後、日本は戦争の道に突き進むことになり、国威を発揚し、戦意を煽るような勇猛な言葉や歌がもてはやされることになり、金子みすゞの作品は忘れ去られることになりました。 しかし、戦後、出版された文芸誌の中で彼女の作品が再び登場することになり、彼女の詩に心を動かされた人達により、死後50年を経て、ついに詩集が発行されることになりました。 彼女の詩は、戦争という困難な時代の中にも、それを読んだ人たちの心の中でずっと生き続けていたのです。そして、彼女の残した言葉は、今も多くの人の心の中で生き続けています。 特に思い出すのが、東日本大震災後にテレビで放送されていた「ACジャパン」のCMで取り上げられた詩「こだまでしょうか」です。繰り返し流された放送で今も記憶に残っている方が多いと思います。 「遊ぼう」っていうと、「遊ぼう」っていう。 「ばか」っていうと、「ばか」っていう。 「もう遊ばない」っていうと、「遊ばない」っていう。 そうして、あとでさみしくなって、「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか、いいえ、誰でも。
CMの最後にテロップが流され、「やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれる」で締めくくられます。
こだまは、自分が発した言葉が反響して戻ってくることを指しますが、それは人間同士にも当てはまり、何気ない一言であっても、人はそれによって傷ついたり、癒やされたりする。そして、その反応は自分にも帰ってくることになります。
現実の世界では、人間関係はうまくいかないことも多いけれども、人と人とが通じあえるようになりたい、という詩に込められた彼女の思いは、コロナの流行、国同士の対立や戦争という困難な現代にも通じるものがあります。
そして、「私と小鳥と鈴と」も彼女の代表的な作品で、小学校の教科書でも取り上げられて知っている方も多いでしょう。 私が両手をひろげても、 私がからだをゆすっても、 鈴と、小鳥と、それから私、 人だけでなく、この世のものには、すべて何かの価値があり、自分は自分以外の人やものによって存在している。そして、その全てが尊いものであるという彼女の優しさに包まれた詩です。 そして、個人的に好きな詩は「さびしいとき」です。 私がさびしいときに よその人は知らないの。 私がさびしいときに お友だちは笑うの。 私がさびしいときに お母さんはやさしいの。 私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。 基本的に人は孤独で、さびしいと感じるときには、それに気づいてくれたごく親しい人にしか伝わらないけれども、それでも十分でないかもしれない。人にはお釈迦様のような目に見えない慈悲深い大きな存在が自分を見守ってくれていて、自分の苦悩を感じて一緒に寄り添って悲しんでくれていると彼女は考えていたのかもしれません。仏教のことはよく知らなくても、自分の心の中のお釈迦様の存在を考えられたら、もっと人は楽に生きることができるかもしれません。 私自身、1月の体調不良のときは、手を差し伸べてくれたすべての人がお釈迦様のように感じられたものです(笑)。 皆さんも金子みすゞの詩集を読んで、自分のお気に入りの言葉を発見してみてください。 |
2022年2月28日(月) |
第264話 コロナワクチン接種 |
投稿:院長 |
2月に入り、当院でもコロナワクチン3回目の接種が始まりました。 自宅や施設を巡回して接種するので、大規模接種会場と違い、1日で接種できる人数が限られているのですが、コロナ感染症患者が増える中、一般診療と両立しながら早く接種してほしいという要望にどう応えていくか頭を悩ませています。 昨年の1〜2回目の接種は、ほぼ全て土曜日に巡回して行ったのですが、3回目の今回は、接種希望患者がかなり増加し、曜日ごとに診療地域が決まっている患者さんの中で接種券が確認できる方、重症化リスクの高い方、デーサービスなどで外部との交流がある方など、いろいろな要素を考慮に入れて接種するようにしています。 また、老人施設では、施設担当者が患者さんや家族の要望を聞き、早々とすべての患者さんの接種券を取り寄せ、予診票の記入や、接種リストの作成まで速やかにやってくださるところがある一方で、なかなか接種希望者や接種券の確認作業が進まず、当院で患者さんやご家族に直接確認をしなければいけないところもあったりで、対応に差があるのも事実です。 どのような施設であっても、患者さんを自施設に入所させている以上、患者さんの健康管理を一方的に医療機関に委ねてしまうのではなく、患者さんの大切な生活や健康を自分達が預かっているという意識を強く持っていただきたいと思います。 「準備は整っているので、いつになったらワクチンを打ってもらえますか?」 「準備は整っているので、早く接種をお願いします!」 という声(圧力?)が私達を動かすのです。 皆で、コロナ感染症を乗り越えていきましょう! |
2022年2月24日(木) |